体と心と思想をめぐって勝手に生まれてきた言葉


by bonishijima
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人が死ぬ瞬間

人が死ぬ瞬間、その人のお母さんに会うことができたらいいのにと思った。

いや、ひょっとしたら本当にちゃんと会いに来てくれているのかもしれない。戦場で死んでいく兵士達が「お母さん」と叫びながら死んでいくってよく聞くし。最後の最後の一瞬にちゃんと来てるんじゃないか。

母親なんて金輪際会うどころか一瞬たりとも考えたくないという人だっているだろうから、そんな人には可哀相だけど、まあ所詮他人のことなのでどうでもいい。心の母親でも育ての親でも何でもいいけど、お腹の中にいたときの幸せな感覚でも何ででも、いや、俺のおかんに抱きしめられて死ぬなんて気色悪いわとか、輪廻転生は信じないとか、いろんな意見はあるかもしれないけれど、でももしかしたらそうなんじゃないだろうか。そうだとしたら私としてはとても心が救われる。

私はとてもよく死ぬ瞬間のことについて考えている。
正確には死ぬ瞬間の恐怖に恐怖していると言えるか。

私は死ぬのが怖い。

死ぬことを想像するのが怖いのだ。
パニックに陥るのが怖い。

死の瞬間が特に怖い。

怖い(こわい)と書くとあんまり怖くなさそうだけど、そこは恐怖と書いてこわいと読んでほしい。
戦慄と書いてこわい、でもいい。

よく考えたら死ぬまでに起こる死への恐怖というものは全て想像なので、想像力を上手く使って怖くないようにできたらいいと思う。でも間違って想像力を駆使して怖い方に行ってしまったら・・・多分私にはその才能があるのだろう・・・それは怖い。

昔は怖いものなんて何もなかったのに、一体いつからこんなことになってしまったのだろう。
おばあちゃんが死んでお母さんが死んで、パリの電車とトイレに閉じ込められて、911が起こって世界のいろんなところでテロが起こって、いつの間にか何となく怖いものだらけになった。いや、パニックへの想像力が異常に高くなってしまったのだ。反面、人の辛さや悲しみというものへの共感というか想像力というか、そういうものは異常に高くなってしまった。

実はこれまでに臨死体験のようなものをしたことが一度ある。
これはいろんな怖いものが登場する以前のことで、想像の範囲を圧倒的に越えてしまった出来事だった。
ある砂漠の町のモーテルで風呂に入っていたところ、浴槽の淵で肘を思いっきり強打して意識が飛んでしまった。瞬時に自分の体がいろんなビビッドな色に分解して、それはまるでサイケデリックの世界でLSDとかこういうもんじゃないだろうかと思ったけど、それに加わって周りの空気も分解していろんな色や質感に変容していった。もしかしたら美しい感じがするかもしれないが、ものすごく気持ちの悪くておぞましいのにどことなく実感がないような感覚だった。

運良く家族に発見されて浴槽から引っ張り出されたが、私の体は右側に変な風にねじれて、顔は水面近くまでかぶさって、口にはお湯が少し入っていたそうだ。もし誰もいなかったら、溺れて死んでしまっていたことだろう。目覚めた後は夏なのに寒くて震えていた。ダイナーに行ってトマトジュースとグレープフルーツジュースを大きなコップで一気に飲んだ。

ちなみに気が狂ったようになったことも一度ある。
突然家の中にいるのがものすごく怖くなって息ができないようになってしまったのだ。外に飛び出したが、零下20℃の寒さでずっと外にいることはできなくて、何とかここから空港まで行って飛行機に乗らなくてはということを考えながら、近所を何周か回って臓物がねじれるような思いで家の鍵を回すが怖くて入れない。何とかして玄関を開けると、中には暖かくて笑顔で出迎える家族がいるのに、震えが止まらず息がつまって呼吸することができないのだ。あれは本当に怖かった。

自分が怖いということが怖かった。

その夜、もう自殺してしまうかも、という思いを何とかごまかすために、話し続けた。途切れることなく家族と意味のない話をし、電話で知り合いと話し、ベッドで一人で話し続けた。話し続けているうちに夜が明ければ何とかなるかもしれないと思った。ベッドの中ではこの世には確かに精神世界というものが存在するとはっきり感じた。そしてその時まさに、私の精神が肉体から分離して飛んでいかんとしていたのである。自分の精神が翼のようなものを持って地上から乖離しようとする意志のようなものが私にははっきり見えた。神経が行ってしまわないように、ベッドの中で体をやみくもに動かした。まるで精神病院の隔離されている患者のように。私には彼らの気持ちが少しだけわかる。体を動かしている間は何とか精神を自分のものとにひきつけておけるのだ。

でも私の精神は幸いにも完全に離れていかなかった。震えはまだあったものの、無事朝を迎え、数日後にはずいぶん普通の状態に戻ることができた。本当に幸運だったと思う。以来、あれほど激しい乖離は起こっていない。

人は赤ちゃんの頃、こういった恐怖を抱くことがあったのだろうかと思う。
生命の存続に関する根源的な恐怖というのは、人として生まれた以上宿命として持たなければならないものだろうけれども、健全な赤ちゃんには精神も肉体も一つにまとまって、こういう恐怖は全くない気がする。となればこれらはみんな後天的なもの、社会や人間関係が作り出したものと言える。そうであるとすれば、人間の本来の姿は恐れのない大らかなものであって、その流れを阻害するものがなければいつまでも楽観的で大らかで他者に頼ることを疑いもしない、赤ちゃんそのもののたくましい姿であり続けられるのかもしれない。そうであってほしい。いや、そうであると直感する。

同じような直感で、人間というものは死ぬときに自分のたくましさと楽観性を再確認するような気がする。そのシンボルとしてお母さんが現われるのではないか。死ぬ寸前の瞬間に。それはお母さんの姿をしていないかもしれない。しかしとても懐かしい、諦めにも似た最後の手放しに、生まれてきたときの至福の海に包まれていたことを想い出すのではないか。

そうであってほしいと思う。
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# by bonishijima | 2009-11-29 04:02 | お話

深夜に想うこと

夜中にベッドで授乳していると
最近頭の中でめぐっている歌がまた自然に鳴り響く

♪ 今までしてきた悪いことだーけーでぇ

  ぼくがあ・し・た 有名になってもぉー

  どうってことないさあー

  まるで気にしないィィ 君がぼくを知ってるう

最近子供がかわいくて仕方がない
でもそれは何だか怖くなるような感じも下に敷かれている
私がしっかりしなきゃな でも

そして急に母のことを想い出す
30歳になっても「子供がそんなこと心配せんでいい」って
いつも言ってた母のことを

冬休みに帰ってコタツでごろごろしていると
お母さんは毛玉がいっぱいついたセーターを
さびた小さい糸切りバサミできれいにしてくれた
煮豆や鯛のアラ煮をさっと作ってくれた
なつかしいな
お母さんが元気だった頃の最後の冬
あんな日が毎日続いていたときがあったなんて今では信じられない

♪ 誰かが僕のじゃまぁをしてーもー

  きっと君はいいコト思いつくぅ

  何でもないことで 僕を笑わせる

  君があ僕をー知ってるー

今までずっと傍にいた人の
細かい仕草や質感が少し遠いものに感じられるとき
肌の感じや声をちゃんと憶えているか不安になるとき
ビデオがあればよかったかもしれない
写真もコンピューターに入ってスライドショーにできればよかった
そんなとき懐かしさは限りなく深くなる

♪ コーヒーをぼくに入れておっくーれーよぉ

  ふたりのこの部屋の中で

  僕らはここにいる 灯りを暗くして

  君が僕を知ってるう だ・だーん(ギター)

下の居間に降りて秘密の小箱を開ける
ニッセイのメモ帳に走り書きされたお母さんの手紙に触れる
そこに書かれてあることと
そこに書かれていないこと
そのメモ帳はまだちゃんと私に伝えてくれる
なつかしいあの人を運んでくれる
「体に気をつけて長く働きます」だって
昔からあの人はちょっとおっちょこちょいだったから

♪ なにからなぁにまで君がーわかっていてくれる

  僕のことすべてベイべェー わかっていてくれる

  はなればなれになんか なれないさあー

橋の真ん中で車がガス欠になって
兄弟3人で押したこともあったねぇ
酔っ払っていつまでもトイレから出てこなくて
みんなでドアを壊して入ったことも
こんな夜に一番会いたい

♪ はなればなれになんかあ なれないさー
  ・・・・

CDを消して寝室に戻って
すうすう寝息をたててる子供の横にもぐりこむ
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# by bonishijima | 2009-05-21 13:52 | 日記

開高健讃

寒いから家ごもり。水面下のストレス。

またまたブックオフに本漁りに。しっかし20%オフっていうけど、いつもと違いが全然わかんないぞ。別に安くない。今回は一人で行ったので少し落ち着いて探せるものの、気ぜわしいのが習慣になってしまってやはり目に付いたものをパパッとつかんで出てきてしまう。

いろいろ買った中、敬愛する開高健氏のコラム集「知的な痴的な教養講座」は読み応えがあった。自他共に認める活字中毒だから、どーでもいいようなオモロイことの知識がぎっしり、オンナ、セックス、食べ物、酒、釣り、ファッション、モンゴル帝国の歴史、戦争などなどいつもの開高健のトピックが満載。開高健の本ってどれもホントにうまいと思う。小説もエッセイも旅行記もタッチは違えぞ、どれも骨太かつちょっとオッチョコチョイな中年男の風貌がにじみ出るような文体で最後にしんみりしたり苦笑いしたり。

この間開高健の娘さんの本をまたしてもブックオフで見つけて読んだところ、彼は重篤な躁鬱病だったらしい。自身の戦時・戦後体験に翻弄されて、高度経済成長期の日本の生活にいたたまれず、頻繁に世界の紛争地帯へ出かけていった。時折語られる戦争体験はどれも気迫がこもっていて生々しい。空腹で体が震え、木っ端に食らいつきながら体を支えた、とか。戦後一生懸命働いて稼いだお金で家族を助けることもせず、女を買いに行くしかできなかった、とか。だからこそ食べ物の道楽を書きながらも、どこか悲哀漂うおっさんだったのだろう。ちなみに娘さんは意外にもピーターラビットの料理本を書いた文筆家だったとか。開高健の死後まもなく踏切事故で夭折している。

ちなみに「知的な・・」の本の内容はどれも苦笑するような下ネタ方面なのでアレなんですが、せっかくなのでつらつら書き出すと
「男は丸干しじゃけん
女は開きじゃけん
乾きの速さが違うんよ」
らしい。

さらに
「一本のワインには二人の女が入っている。一人は栓を開けたばかり、もう一人はそれが熟女になった姿である」
ならしい。

抜粋しすぎてわかんないか。
ではこれはどうだ。

「親の体が分解して有機燐になり、プランクトンになり、それを毎年、その子が食べて育つわけだ。サケは、子を知らずして親は死に、子は親を知らずして生まれる。(中略)なるほど、昨日と今日の違いか・・・万物は流転する、輪廻転生する、形が変わるだけだ、エネルギーは不滅である、質量恒在である。(中略)インドの仏教哲学者の認識は正しかった。科学的に、まことに正しかったと思われる。それは直感を基礎にしたものではあったが、自然に教えられた認識論であった。・・・生まれ変わり説とか輪廻転生とか聞くたびに、君は今後このことを思い出す。世の中は質も量も変わらない。形が変わるだけである。むだなものは何もない。むだに見えるのは、人間の目が愚かだからである。南無。」

いきなり引用が長すぎたか。

モツ料理の話。
最近は日本でもホルモンなどが女性に大人気らしいが、開高氏も1に肝臓、2に腎臓、3に胃とおっしゃっておられる。魚は頭、目玉、唇、下腹、内臓、肉の順らしい。氏はアマゾンに棲息するピラルクの、フランクフルトソーセージのような腸にピラルクの舌を差し込んで炭火で焼いて、岩塩と唐芥子をパラパラとかけて食うためにアマゾンへ行くのだそうだ。そんな理由で旅に出るなんて豪快だけど人生ってそうあるべきだなあ。

てなわけで開高健、おすすめです。長編では自伝的小説「耳の物語 破れた繭」「夏の闇」、短編集では遺作「珠玉」がよいです。
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# by bonishijima | 2009-03-06 14:20 |

妹のこと

私の妹は今、南米をおよそ3ヶ月かけてひとりで旅をしている。海外旅行もそんなに行ったことがない上、英語もスペイン語もほとんどできないもんだから旅の計画をきいたときはびっくりした。第一、南米って危ないっていうじゃないか。ツアーにも参加せず、宿も道中決めるというバックパックひとり旅。大丈夫か。しかしながら仕事の契約を短縮してまで休みを作って貯金をためて、本当に旅立ってしまった。

南米に渡る前、妹は出産を控えた私をニューヨークに尋ねてくれた。ちょうど生まれるときに来てくれたので、大いに手伝ってもらい大いに助かった。お正月をはさんでいたので簡単なおせちも作ってくれて実に有難い限り。私たちは年が6歳離れているのでこれまで一緒に過ごしたり話したりしたことがほとんどない。私が大学を卒業するまで一応同じ家に住んではいたが、バイトと舞台にあけくれた大学時代ほとんど家にいなかった私は1週間に一度会えれば上等という存在だったし、通称“西嶋寮”と呼ばれていた我が家ではみんな他の家族に干渉することなくそれぞれがマイペースに暮らしていた。朝起きて母以外の誰かに台所で会ってもおはようも言わなかった。マイペースなのかドッチラケなのか、でもその時はそれが普通だと思っていた。なので今回、ふと気づくとほとんど初めてと言っていいくらいの家族的な時間。妹がいた3週間は、旦那も合わせてまさに3人で子育てという合宿状態だったから、一緒に何かをやってる感は格別高かった。

彼女自身は独身で子供もいないけれど、養護学校の教師をしているせいか子供の扱いに慣れていて何でもテキパキ片付けてくれる。そんな面も今まで見たことがなかったので新鮮だ。今までは何となく私の方がしっかりしているようなイメージがあった気もするが、蓋を開けてみたら、いやいやどうも向こうの方がずっとずっと大人でしっかり者。加えて私は初めての出産・育児で体もヘロヘロ、情緒もボロボロ。しょちゅう自分に自信が持てなくなっていた頃だった。思うんだけど、やはり人間は大家族の中で小さな子が生まれたり泣いたり、じいさんが病気になったり死んだりするような家族的イベントに関わりながら育つのが一番強いような気がする。曲がりなりにも子を出産して育てていると本当にそう思う。

さっきも書いたが私たちは6歳年が離れている。間に3歳違いの弟がいて、弟とは私が中学生になるまでどこに行くのもいつも一緒に行動していた。でも妹とはほとんど一緒に遊んだおぼえがない。ただ一つよく憶えているのは、毎週土曜日、私が妹を保育園まで迎えに行っていたことだ。

うちの母は土曜日も働いていたので、半ドンで終わる土曜日にお迎えに行くのは小学生になった頃から長女の私の仕事だった。最初は弟と妹をお迎えに行って、弟が小学生になってからは妹だけを迎えに行っていた。みんなで家に帰って母が用意してくれたうどん玉と出汁でうどんを作ってお昼を食べていた。書いてるうちにだんだん思い出してきたけど、家に帰る途中でなぜかどぶに家の鍵を落としてしまい、近所のおばさんたちに針金を借りてすくったこともある。ある日、その頃妹はまだ2歳くらいだったか、私は同級生と遊びに行って3時間くらい遅れて妹を迎えに行った。もちろん保育園にも母にも事前に何も言わずに。確か親が遅くにしか迎えに来れない子も他にいて、長めに保育園に残っている子供たちも数人いたから大丈夫だろうと思ったのだ。そのときのことはよく憶えていて、土曜日の放課後に遊ぶのは何て楽しいんだろうと私はうきうきしていた。妹はまだちゃんと話したりできないし、たまにはちょっとくらい遅れても何とかなるだろう。ひょっとしたら内気で臆病だった私は、内心ビクビクしながらも友達にいい顔したかったのかもしれない。迎えに行ったとき、保育園には他に誰も残っていなくて妹だけがぽつんと入り口近くの床に座っていた。先生達はたぶん奥にまだ残っていたはずだけど、何も言わずにぼーっと私を見つめてた妹の顔をよく憶えている。後日もちろん保育園の先生から母に報告されて、当然こっぴどく怒られることとなった。母はわりと論理的に叱る人で(それも長女の私だけと当時は不満に思っていたが)「友達が次々と帰る中で一人だけぽつんと残された妹がどんな思いをしたか考えたことがあるのか。お姉ちゃんやろ」と問いただされた気がする。私は口には出さなかったけど「こんな小さいガキにそんなちゃんとした感情があるわけないやんけ、ふん」と思っていた。今からすればほんとひどい人間だ。

当然妹はそんなこと何も憶えてないだろうけど、今更ながら悪いことしたなあとフト思う。

NYに3週間滞在した後、妹はペルーのリマに飛び(飛行機が8時間遅延して現地に夜中の3時ごろ到着した)、マチュピチュやクスコを回りボリビアに渡って3週間アマゾンを探索し、チリに行って氷河を眺め、イースター島に行き、現在はアルゼンチン南端のエル・カラファテという町で氷河を見にいったりトレッキングをしたりしている。このあとはパラグアイとブラジルに行って日本に帰る予定らしい。しっかり者だから大丈夫かもしれないが、異国と旅は何が起こるかわからないので十分気をつけて旅を楽しんでほしい。私が迎えに行ってた頃のぼーっとした顔を思い出して、ときどき何となく心配になる。
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# by bonishijima | 2009-03-01 05:14 | 日本のこと、日本にて

アジュナの開き

アジの開きではありません。
私が経験した瞑想のお話です。ちょっと文章にしにくい世界なので、訳わからないかもしれません。
こういうジャンルが苦手な方はまたのお越しをお待ちしております。

アジュナ(Ajna)とは人間の体に流れる6番目のメイン・チャクラで、一般的に眉毛の間に位置すると言われています。といっても皮膚の表面にある訳ではなくて、そのずっと奥の脳の中心にあります。
ISHTAヨガでいつも行う瞑想にAjna Bhedana(アジュナ・ベダーナ)というものがあって、アジュナに意識を集中してそこにエネルギーを貼り付けて瞑想します。一点に意識を集中させることで、外部の刺激から遠ざかり(sense withdraw)自分の内側の意識を高めていくのです。究極のヨガの悟りの状態、サマーディとはすべてが統合した大きな宇宙になることですが、そこに近づくための段階として、まずは一つの物事に意識を集中させるわけです。実を言うと、私はこの一点集中が苦手で、やろうという気にすらずっとなれませんでした。集中力と持久力という私に欠落する二大要素が必要とされるからです。それがある日、世界が逆転するような経験をしたので、そのことについて少し書いてみたいと思います。

・・・・・・

最近は月・火・水の夜にサラという先生のヨガクラスを受けている。彼女は、ISHTAヨガの創始者アラン・フィンガーと最近結婚した、とても美しくて才能あふれる女性であり、ISHTAヨガのティーチャーズ・トレーニングのディレクターでもある。彼女のクラスはため息がでるほど美しい。だが良いクラスなだけに、自分の精神状態が不安定だと、的確にそれが感じられてしまうという面もある。彼女のクラスは通常アサナ(ポーズ)の練習をやった後に短い瞑想をして終わる。ISHTAは、ヨガの目的は瞑想にあるという考えなので、大体どのクラスも瞑想で終わるのが普通。

今週の月曜日にもサラの美しい歌声で終わるクラスを受けたのだけれど、最後の瞑想の時間に、突然言いいれぬ圧迫感のような、不安のような感覚に襲われた。楽しくクラスを受けていたのに、どうしてそんなことが起こるのか全くわからない。体はすっきりしたけれど、苦々しい思いでスタジオを後にした。翌日、少しおびえながらまた同じ夜のクラスに出かけていった。突然襲われた感覚は突然消えていくんじゃないかという、変な感覚を持ちながら。アサナのクラスはいつものように楽しく、ハードなところはハードで、かつ淡々と過ぎていった。そして最後、ほんの2,3分の短い瞑想の時間にこれまた予期せぬことが起こったのだった。

そのときしていた瞑想はSat Yam(サット・ヤム)というもの。これは第4のメイン・チャクラでハートのチャクラと言われる、アナハタ・チャクラに呼吸とともにエネルギーを注ぎ込みハートの中心から外へ意識を広げていく。そのあと、人差し指につばを軽くつけて眉毛の間を湿らせ、そこへ意識を集中させるアジュナ・ベダーナをした。そのときである。不意に眉毛の間がどんどん奥深くなっていくような不可思議な感覚が突然現われた。少しSFもどきになってしまうが、あえてそのときに広がったイメージを説明してみると、インカのピラミッドの地下に深い深い階段があって、下りていくと漆黒の空間につながっているというものだった。これは後で浮かんできたイメージなのか、そのとき思い描いたイメージなのか、今となってははっきりとしないが、とにかくそんな感じでとても摩訶不思議な世界だった。漆黒の中に浮かび上がるピラミッドの架空の地下階段を一つ一つ降りていくごとにアジュナが深くなっていく。意識は完全に空っぽになっているわけではなく、いろんな雑念というか思念のようなものはたくさん自分の中に渦巻いているのだが、脳の真ん中のアジュナだけは、まるでブラックボックスに吸い込まれたようにどこか遠い時空の中に貼り付けられていた。何が起こったのかわからないまま、私はずっとそこに座り続けていた。他のみんなが、シャバーサナ(死体のポーズ)という最後のリラクゼーション・ポーズになって床に横たわり始めても、私は全く動くことができなかった。それは、何と言うか、至福の時間だった。静かな漆黒の空間に自分という生命体が膨張してたゆたっているような。初めての体験だった。

クラスが終わり、そのまましつこく目を閉じたまま座り続けていたが、部屋の明かりが点されると共に、ようやくゆっくりと体を動かすことができた。尋常じゃないほどアジュナの一点が痛いほど熱い。まるでウルトラマン(?)の胸のアラームみたいにビンビン光っているような感じだった。

一体何が起こったんだろう・・・
ぼんやりと目を開けたまま呆然とそのまま立ち尽くすのみだった。

それ以来、はっきりとアジュナ・チャクラが身体的に意識できるようになった。それはまるで関節のように、ただそこにある。意識を持っていくとごく自然に深い瞑想状態に入れるようになってしまった。こうやって書くとインチキくさいが、本当のことだから仕方がない。こんな世界があったのか、という思いだ。ヨガの本にもチャクラについて色々書いてあるし、もちろんアランや他の教師達もいろんなことを話してくれていたが、まさか本当に確固として実在するものだとは思っていなかった。何にせよものすごく気持ちのいい集中力が生まれるので、いつでも時間と場所があれば瞑想したいという気持ちになる。今まで瞑想が苦手だったので、これはいいニュースである。

今は授乳の合間にでも瞑想できるようになった。でももっと長く落ち着いてやってみたい。ISHTAでは毎日最低18分間、何もせずにただ静かに座って瞑想しなさいという教えがある。とてもシンプルでいいではないか。
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# by bonishijima | 2009-02-20 07:27 | ヨガ
以前の日記に書いたように私は緊急帝王切開で出産をしたわけなのですが、それは産後1ヶ月たった今も少し「引っかかる」出来事です。自分の考えをまとめるために、そのことについて少し書いてみます。

まずはそれが「促進」されたお産だったってこと。メインの理由は「羊水が少なくなっている」と言われたこと。赤ちゃんもあまり動いておらず、心拍も低くなっているということ。また羊水のレベルにはいろいろ説があって、これは自然系の出産本に書いてあったのだけれど、羊水は日によって量が異なることもあるらしい。だからその日少ないからといって慌てることはないという説もある。

第2に促進剤には陣痛を誘発させるピトシンというのが使われたのだが、これが効きすぎて赤ちゃんはお腹の中で暴れまわるし、私も激痛に襲われるし、仕方がないのかもしれないけど正直ひどい目にあった。そしてピトシンは激痛をもたらすため、痛みを抑える麻酔エピドュラルを使わざるをえなくなるということ(がんばって耐えて使わないようにすればよかったのだろうけれど)。さらにエピを使うと陣痛が遅くなりまたピトシンを使って、それをまた抑えるためにエピを使って・・・という悪夢のダウンワード・スパイラルに陥りやすいということ。私は1度ずつしかピトシンとエピを使わなかったけれどこわい話である。

第3は、これもほんと仕方がないことなんだけれど、3年前に受けた子宮筋腫の摘出手術でお腹(子宮)を切ってる経緯があるということ。切らずにおへそから管か何かを入れて筋腫を切る内視鏡手術もあったみたいだけど、保険の都合で受けられなかった。もしこの手術をしていなければ今回吸引などで無理やり普通分娩ということもできたかもしれない。

まさに、もしもあの時・・・の連続マイナス思考なんだけど、産んでから運ばれたリカバリー・ルームでウトウトとまどろみながら私はぼんやりこんなことを思ってた。結局は仕方がなかったなという所に行き着くけれど「何かすっきりとしないな~」という感じ。でもまあ、それでもぐうぐう寝ていたんだけど。

なぜ破水もしてないのに(と思う)羊水が少なくなっていたのかわからないけど、1週間くらい赤ちゃんの動きが少し鈍かった気もするので、羊水は少し前から少なくなっていたのかもしれない。それなら早めにそう報告していれば違ったのかと考えると、ただ単に早めに帝王切開になっただけのような気もする。もしくは「促進」お産にNOと言えばよかったのかもしれない。でも赤ちゃんの胎動が少なくなって心拍も少ないと言われたときに、どれだけの人が「いえ、大丈夫です。」と踏み切れるだろうか。

子宮筋腫の手術に問題があったのだろうか。その当時私は手術を受けたくなくて、鍼灸や漢方の治療をを集中的に受けていた。それでも3ヶ月後には6センチだった腫瘍が何と9センチにも膨れ上がって、このままでは子宮全部取らなきゃならないということにまでなってしまった。

うーん、やっぱりコトがなるようにしかならなかったのかもしれない・・・
それに何と言っても無事に生まれてきてくれたのだし。

ただまるで自分がこの国の保険・医療制度の闇の世界で踊らされたような気がして、何だか納得できない。というか単純に残念だった。陣痛もしんどかったし、帝王切開手術も怖かったし。インターネットで日本のテレビ番組を見たら、若いタレントさんがすごくやさしい看護婦さんたちに囲まれて、立派に静かにお産をしておられた。病院のご飯もおいしくて体に優しいものばかりに違いない(私なんて翌日ミートボール・パスタよ)。もし次の機会があるのなら是非とも日本の病院にお願いしたいと思う。窓の外に満開の桜でも眺めながら。
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# by bonishijima | 2009-01-29 08:46 | 妊娠日記
タイトルはちょっとメルヘン風に。
この日記はもう何度も書きかけては中断してを繰り返していて、もう一言「ダンジ、ウマレル」だけの報告にしようと思ったのですが、せっかくなので今まさに膝の上でおならをぶーっとこいておられる男の子の誕生物語を自己満足のためにも書いておこうと思います。

チビぼう、あーちゃんはクリスマスイブについに生まれました。

12月22日は予定日だったけれど何も起こらず。
ミッドタウンでヨガを教えてらっしゃるSさんに借りていた本を急いで返しに行った後、余裕をかまして旦那と一緒にマンハッタンの蕎麦屋でランチを食べる。

翌日はちょうどドクターとのアポイントメント。問題ないと思うが、一応出産予定の病院に行って検査を受けてみなさいとのこと。(普段の検診は小さな総合クリニックで受けている。出産の担当医は同じ)以前に子宮筋腫手術で子宮を切っているのに普通分娩をするということで、私は“ハイリスク出産”とされており、担当の先生はしばしば私を専門医に送っていたのだった。関係ないけど私の担当の先生はスペイン語で“小さな窓”という名前の優しいおじいちゃんです。

すぐに病院に行って検査を受ける。どうも羊水が少なくなっているらしく子供があまり動いていないという。そして心拍数も低いらしい。破水の覚えは全くなかったので寝耳に水だった。そのとき私はものすごくお腹がすいていたので、そのせいじゃないのと検査医に助言してみたが(私はよく先生に助言する)それとは関係ないと一笑された。検査室の隣はちょうど看護士たちの休憩部屋で、クリスマスクッキーやケーキなどが続々運ばれていく。死にそうなくらいお腹がすいていたのでじーっと見てると、私の専門医は「きみ、お腹すいてるの?クッキー食べる?」とクッキーを数枚くれた。その後も何回か「もっとくれ」と要求してさらに食べたクッキーが最後の食べ物になろうとは。ケーキも食べておけばよかった。

エコーのあと、さきほどの専門医に呼ばれてお話。「クリスマス前に出産したい?それとも後?」といきなり聞かれ「いつでも準備オッケーよ。わはは」と冗談をかましたら「OK。レッツ・ドゥー・イット・トゥデイ!」とおっしゃる。え、トゥデイ・・・?
「赤ちゃんの心拍も落ちてるし羊水のレベルも下がってる。このまま家に帰って何か起こったら心配だし。これから上の陣痛室に行って促進剤を投与して、明日には生まれるよ。はっはっは」「君はラッキーだよ。さっき僕がたくさんクッキーあげたからね。もう生まれるまで何も食べられないよ」
駐車のメーターにコインを追加しに行った夫が帰ってくると、「こ、これから産むんだって・・・」と体が震える。し、しまった。お昼ごはんを食べてくればよかった・・・いや、それどころじゃない。

時刻は午後3時ちかく。入院手続きやら保険の記入やらを済ませ、陣痛をする個室に入って栄養剤などの点滴を受ける。
「君がラッキーだったら大体8~12時間くらいで子宮口が開いて分娩室に行けるかもしれない。そうでなかったら・・・もっとかかるかもね。」
が~ん、ラッキーで8時間・・・

実はこの日は、夕方の6時ごろに妹が日本から飛行機でNYに到着することになっていた。
分娩と重ならないといいけどなあと思っていたが、ばっちり重なってしまった。旦那は空港まで迎えに行かなくてはならないし、それ以外にもいろいろ準備をしなくてはならないので4時半ごろ一旦家に戻る。その間私は普通に元気にテレビを見ながら看護士といろいろ話したりしていた。一つとても気になっていたことがあったのである。それは・・・下の話になるがアメリカで浣腸をするかどうかという点であった。それまでに調べた限りでは、どうも浣腸はないらしいというのが結論だったのだが確認したかったのである。というのも、実はその日、朝のアポイントメントが早くて用を足せていなかったのだ。はっと気づくと点滴やら何やらでベッドにくくりつけられている。分娩室に行くまでに是が非でもやってしまわなくては。ということで、おそるおそる尋ねてみると「そんなものはしない」とのこと。しかも!トイレに行ってもいいけど「きばっちゃダメ」らしい。え・・・そんな馬じゃないんだから・・・

そのあと何度もトイレでトライしたが出来なかった。
看護士のおばちゃんは「あのね、分娩室ではそういうこと毎日起こってるから誰も気にしないわよ!」と言う。私が気にするよ!!
そんなこんなで7時ごろいよいよ促進剤が投与されるも、10時くらいまで何にも起こらず。しつこくお腹はすいている。

8時半ごろ妹と旦那が到着。
「マイケルが鮭の味噌焼きを作ってくれたよ」

10時ごろ長旅で疲れた妹は家へ帰り、11時ごろ旦那だけがまた戻ってくる。

1時くらいまでヨガ風呼吸でじっくり陣痛に対応。

2時くらいから呼吸どころではなくなり叫びはじめる。しかしこの時点でまだ子宮口は1.5センチしか開いていない。というか、朝の診察ですでに1.5センチ開いていたんですけど・・・

3時ごろ、エピドラル(麻酔)を懇願する。が、まだ子宮口1.5センチのまま。5センチまで待ちなさいとのこと。

5時ごろ(?)引き続き叫びまくる。
まだ1.5センチ・・・あ・り・え・な・い!
先ほどの看護士が来て「アンタ、これまだ前半よ。あと10倍くらい痛くなるわよ」という。やかましい!とっとと浣腸もって来い!(冗談です)

6時ごろ(?)絶叫。ベッドに横たわっていられない。勝手に床に四つんばいになって耐える。激しく背中をさすってもらう。やっと4.5センチ。陣痛はもう1~2分間隔に。産前に読んだ情報ではもう間もなく生まれる状況のはずなのに・・・子宮口が10センチになるまでイキむことはできない。やっとエピドラルの許可がおりる。「でも今、麻酔医が他の人にしている最中だから、もう少し待っててね」

20分(?)経過。慟哭。まだ麻酔医現われず。お願い、もう一人雇ってください。

10分(?)経過。ようやく麻酔医登場。「大丈夫、すぐ効くからね~」
彼はものすごくテキパキとあっという間に痛みもなく硬膜下麻酔(という名前だったと思う)をしてくれた。

5分後。天国。よし、これから生むぞ!

しかし傍にいた看護士の表情がすぐれない。
「気分はどう?」
「痛みはなくて天国よ。でもちょっと寒い」

まもなく看護士がインターホンで何やら話し始めると、すぐに5,6人の医者やら看護士やらが入ってきていきなり酸素マスクやら何やらをつけられる。「これは帝王切開にした方がいいかもな」とか話してる。
ここでやっとドクター“小さな窓”登場。え~ん、ドクター、遅いじゃないですか~
どうやら私の血圧が急低下し、赤ちゃんの心拍数も低下してしまったらしい。触診をしてもらうと、赤ちゃんの頭はまだまだ高い位置にあるという。そのくせ陣痛は異常に激しく、赤ちゃんは動きまくってるらしい。

「君は子宮筋腫手術もしているし、これは帝王切開にした方がいい。」

が、が、が~ん!!
一番恐れていたことが・・・!!
いやだ~~

本当に断ろうかと思ったくらい普通分娩にしたかったが、どうもリスクが高そうだったのでどうしようもなかった。諦められなくて、促進剤なんて打たなきゃよかったんじゃないのかとおじいちゃんドクターに言うと、促進剤ですんなり安全に生まれることもあるし、こういうこともある、仕方ないよ、と言われる。おじいちゃんはおじいちゃんなので、手術は彼のパートナー医師が担当するらしい。「わしはアシスタントに回るからね」
「でも今、他の患者の帝王切開手術中だから、少し待っててね」ま、またか。

そのころ妹がタクシーで現われる。「大変なことになったねえ。でもお医者さんの言うとおり、安全第一で帝王切開にした方がいいよ。」妹はいつも冷静でしっかり者さんである。
手術室の立会いは一人だけということなので、旦那に来てもらって、先ほどの麻酔医が(偶然にも彼はポーランド人だった)同じく麻酔を打ってくれた。この手術についてもいろいろ語るべきことはあるのだが、長くなるので割愛。一言だけ述べておくと、下半身麻酔だけなので痛みはないが非常に怖い代物だった。しかし麻酔も入れて大体全部で40分くらいのスピード手術で、アメリカ人もやるなと思ったくらい、終わってしまえばあっという間だった。クリスマスイブの午前11時47分、5回くらいおんぎゃ~と泣いて、あーちゃんは無事登場した。このときはやっぱり涙が出た。

急にお腹が開けられて引っ張り出されてびっくりしただろうな。

ようこそ。お待ちしておりました。
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# by bonishijima | 2009-01-24 17:16 | 妊娠日記
NYタイムズ紙で麻生首相の家族が経営する炭鉱工場が、第二次世界大戦中POW=prisoner of war(戦争捕虜)に強制労働させていたという記事を読んだ。

http://www.nytimes.com/2008/12/20/world/asia/20japan.html?_r=1&scp=1&sq=prime%20minister%20aso&st=cse

私は全然知らなかったけれど、日本では以前から噂や批判があったらしい。それどころか麻生首相が日本政界で最も裕福な政治家の一人だなんてへーって感じである。こういっちゃなんだけどそんな品格が微塵も見られないから驚きである。pimpの出かと思った。いや失礼。

記事を要約すると、第二次世界大戦中、麻生首相の家族が経営する炭鉱で約300人の捕虜が労働力として使われていたそうだ。彼らはオーストラリア人、イギリス人、オランダ人捕虜プラス、アジアからの強制労働者たち。麻生氏は長い間この疑惑を否定してきたのだけれど、厚生省の地下室から証拠となりうる関連書類が出てきたことで、完全な否定から「まだ事実は確認されていない」という発言に変えているが詳しいことはまだ何も語っていない。地下室だって。漫画みたい。特に英語で読むとさらに淫靡な雰囲気が出て、一体どんな先進国なんだと思ってしまう。

当時は兵器を作るために鉄や銅などを国が渇望していたので、こういった軍からの違法労働調達はどこでも行われていたのだろうが、POWに強制労働させるということはジュネーブ条約(だったっけ?)で禁止されており、立派な犯罪である。だけど何だって今になってこんな書類が出てきたんだろう?それは政権交代をたくらむ民主党の勢力が強くなって、機密書類が少しずつリリースされてきてるのだそうである。

ほう・・・

何だかいやだなあと思った。
北朝鮮に拉致された5人が急に帰ってきたときにも思ったけど、結局政府や国家っていろんな問題を一気に解決できる力があるのに何もせず、政府内や国家間で利害が一致したときにだけいい顔して動く。ほんと人間を何だと思ってるんだろう。そういう人たちはとっとと裁きを受けてほしい。

それにしても麻生さん、67歳なんですね。マッケインと5歳しか変わらないんだ。若く見えるなあ。

NYブログでおもしろいのを読んだ。↓政治家ってどれもこれも情けないなあ・・・
http://www.nyniche.com/archives/544
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# by bonishijima | 2008-12-22 02:19 | 日本のこと、日本にて

父、失業する

私の家族には父の父の代から30年以上続けてきた副業みたいな仕事がある。1年の半分くらいだけ木~日と週末にその仕事はある。父も母もそして今は弟も、本業と掛け持ちでその仕事をやってきた。数日前、妹からのEメールでそれが2月いっぱいで終わりになると知らされた。私は知らなかったのだけれど、その仕事は毎年年末に契約更新されてずっと続いてきたらしいのだが、今回急にその更新がされなかったらしい。

私の父は書類上の経営者になっているのだが、数年前に脳梗塞の発作を起こして今はほとんど働けない。それでも弟が主に仕事をこなして、父もできるだけ手伝ってこれまで何とかやってきたのだ。

早速父に電話をすると、父はけっこうパニックになっていて「もし仕事が見つからへんかったら、首でもくくる」といつものように悲観的なことを言っていた。でも申し訳ないけれど、この不況の世情で父のように年寄りで体力も特別な資格もない人間が職を得るなんてまず不可能なことである。父には貯金もあまりないし、妻は他界しているし、母が無謀にも昔に買った土地の借金もあるうえ、年金生活できるほどの年齢でもない。おまけに3人の子供はみんなボヘミアン的性格で、妹以外に安定した仕事についている者はいない。パニックになるのも仕方がないのだ。

私も思わず動揺して励ますつもりつもりだったのについつい口調がきつくなってしまって、結局「もう俺のことはほっといてくれ!」と心を閉ざされてしまった。私たちが何とかするから心配しないでと言うつもりだったのに、あんまりにも悲観的で暗かったから、ついつい苛々してしまったのだ。むむむ、どうしよう。

親の借金のことで旦那に頼りたくもないし、私たち姉妹・兄弟でがんばるしかないな・・・と電話の後、旦那には口を閉ざしていたのだが(5分くらい)、興奮冷めやらず思わずなみだ目になってしまってすぐさま旦那に告白することに。

彼が言うには「親にはああしろ、こうしろ、とか言わない方がいいことが多いんだよ。」とのこと。
「そうではなくて、彼に必要なのは今の生活から少し解放されることだから、航空券を送って1ヶ月くらいNYに招待してリラックスさせてあげたら?」「今のところ僕の仕事は大丈夫だから、春になってぼうちゃんがまた働き始めたらそのお金を彼に送ればいいじゃない」
「解決策はいくらでもあるんだから」

・・・はい、いちいちその通りでございます。ううう

うちは私の母も旦那の両親も既に他界しているので、もうすぐ生まれる子供の祖父母というのは私の父しかいない。そして父にとっては初めての孫なのだ。ここは落ち着いてまずは元気な子供を生んで、それが親孝行となるのを祈るばかりである。
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# by bonishijima | 2008-12-20 14:22 | 日記
怒涛の週末ヨガトレーニングが終わった。

今週はミッド・タームの試験で、マラソンのように生徒ひとりひとりが30分ごとにクラスを教えていく内容だったので、出産1週間前となった身にはかなりつらかった(ほとんど寝てたけど)。それに加えて難しいヨガ哲学(スートラ)の講義もあり、頭煮沸状態。特に日曜日は朝の8時からだったので、基本的に朝起きられない私にとって、それはほとんど寝られないことを意味していた。が、私のクラスメートはのん気な人が多くて、いや~ついつい夜更かししちゃって4時間しか寝れなかったよ~わっはっは、という明るい人がけっこういた。

それにしてももっと自分が心地よく話せるようなスピードとタイミングで英語が話せるようになりたいものである。クラスではやはり求められる情報伝達のスピードがあって、私の英語はそれよりもかな~り遅い。しかも根本的な問題として英語の言語に心が深く共感できないというのがあるから、言葉が滑ってしまって特にクラスでは居心地が悪くなるのだ。ふぅ・・・もう何年も同じことが課題のこうのとりである。。。どなたか良い学習法ご存知でしたら教えてくだされ。

家に帰って3時間の爆睡後、インターネットのサイトを見ながらバース・プランというものを書いてみた。
http://pregnancychildbirth.suite101.com/article.cfm/planning_your_birth

どのくらいの比率かよくわからないけれど、アメリカでは出産の際の希望を書面に明記して担当の医者や助産士に渡す習慣があるらしい。なるようにしかならない部分もたくさんあるだろうし、とりあえずは母子共に健康であれば何にもいらないのだろうけれど、書きだしてみるとけっこういろいろある。誰が分娩室に入ってきてもいいかとか、どういうポジションで出産したいかとか、自然分娩なのか麻酔を使うのか、どんな種類の麻酔なのか、分娩室で軽いスナックを食べたいかとか、会陰切開はするのか、男の子なら割礼をするかとか、誰がへその緒を切るかとか・・・。あまり色々書いて医者に嫌がられても・・・とかってつい日本人的な考えがよぎってしまうけど、これだけは伝えておこうということをリストにしていく。でも私のおじいちゃん担当医はすごくやさしくて親切で気に入ってるので、現場でもいろいろ口でリクエストしてしまう気がする。

日本では夫も分娩室に入れない場合があると聞いたけれど、本当かな。そうだとしたら私は個人的にすごく心細いと思う。私の夫はやさしいので、そして私はすごく甘やかされているので、分娩の際には何でも頼んでやってもらうつもりだ。出産風景を描いたネイティブ・アメリカンの絵に、夫のキン○マにくくりつけた紐を出産中の妊婦が手に持って、激しい陣痛がやってくるとその紐を引っ張って夫も共に苦痛を味わうというのがある。それを見て私は感動して、私もこれやりたいと夫に聞いてみたら、やってあげたいけど法が許さないんじゃ・・・と口ごもっていた。というか、そんなことしたらちぎれてしまうんじゃないかしらん。

自分でも驚いているのだけど、今回はけっこういろいろ事前に準備をした。妊婦のウェブサイトに、今のうちにおにぎりやすぐ食べられるようなおかずをたくさん作って冷凍しておけと書いてあったので、柄にもなくヒジキを煮たり、炊き込みご飯をつくっておにぎりにしたりしてみた。ヒジキはちゃんと冷凍したけど、炊き込みおにぎりはついつい全部食べてしまってもうない。もう一度作らなければ・・・。

赤ちゃんの服も洗濯して、肌着やらスリープ・サックやらいろいろ入院かばんに用意もした。ああ、私も普通のオンナだったのね。などと自分で自分に感動しながら、失敗しないようにとどきどきした毎日を送っている。
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# by bonishijima | 2008-12-15 15:53 | 妊娠日記